2012.11.18 Sunday
間違っている間違っていないの不毛さと執着 2
こんばんは!今日のあなたは素直になれましたか?
空は青く澄み渡り、街路樹は色づき、デート帰りで気分もいい筈なのに、
なぜか今日は気持ちが沈むなあと思っていたら、何のことはないただの二日酔いでしたw
普段はめったにお酒を飲まないのでたまに深酒するといけませんね〜
二日酔いなんて久しぶりだったので自分の状態が良くわかんなかったようです><
さてさて昨日の続きです。
執着って何故するのかというのは多分そこにやりきっていない、出し切っていない後悔の念と
深く絡み合っていると思うんです。
特に対人の場合はね。
もし本気で人に誠意を尽くしたり全力で向き合っていれば、例え誤解されようとも
傷つけられようともそこに後悔はないので、結果を受け入れやすいんです。
その時の自分の最善の選択をしたわけですから。
もしタイムマシーンで過去に戻っても、同じ状況で自分が同じ選択するなら結果も同じなわけです。
でも駆け引きしていたり、保身していたりすると「たら、れば」に囚われるのでその執着から逃げられない。
そしてもうひとつ、人間関係において多くの人が囚われやすいのが、善悪だとか正誤だとか
正しい正しくないの世界です。
女性の恋愛相談で特にありがちですが、相談や愚痴って別にアドバイスを求めているわけではなく、
「あなたは間違っていないよ」「その状況なら仕方なかったよ」って誰かに言ってほしいだけなんですよね。
自分のとった行動・選択に自信がないから誰かに認めてほしいのでしょう。
でも本当は自分で自分の行動や選択に納得していれば、悲しいや寂しいという思いはあれども
「執着」ってほど囚われなくてすむはずなんですけどね。
で、昨日も書いた言い分と言い訳なのですが、これって究極煎じ詰めれば
自分の道理を相手に通したい=思い通りにしたいって事に行き着くと思うのです。
「運について」や「運と行動と癒しスタジアム」の記事で、
「自分の思う道理に合わない事は周囲からもたらされます。それが自分にとって良いことならば
幸福だし、苦手な事ならば不幸」、
「この世には本当は善悪も正誤もありません。それは勝手に自分が作っている常識やルールという名の思い込みです」
と書いたように、あなたの道理はあなたが思い込んでいる道理であって、誰かの道理とは別なのです。
聖徳太子が作ったとされる十七条の憲法の第十条では
「人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。」との一文があります。
ざっと訳すると
「人はそれぞれの考えがありますし、それぞれがこれだと思うことがあります。
相手が良い!といっても自分はそうではないし、自分が良い!と思っても相手はそうではない。
自分が必ず聖人で、相手が必ず愚かだというわけではありません。皆同じように凡人。
そもそも良いとか良くないとかの道理を、誰が定めることができるんでしょう?」
ううーん!1400年以上も前に制定されている憲法に既に記されてるとは!
とはいえ昔は私も「常識」という言葉に囚われていて、「常識がない」と言われることが一番嫌でした。
先ほど書いた事だって元々そんな考えだったわけではありません。
ルールを守ることが好きだったし、心の中でジャッジする癖がありました。
でも、自我が崩壊して、その事で多くのものを失ったと思い込んだ時に
一番立ち直れなかったのが「常識を制御できない状態に陥った私」を見捨てられたと思った事だったんです。
今まで常識という理を持って判断や結束に関してさんざん頼ってきたのに、助けを求めたのに
疲れてできなくなったら一発で見捨てるんだーと。
まあその常識が通じないときでも今と言っていることは基本的に変わらなくて「個人の幸せと世界平和」
だったんですけどねw
それでもその時は気狂い扱いもされたし、逆になぜか知らない人に拝まれてついて来たりもしたんです。
間違っているとか間違っていないとかって一体何なんでしょうね。
正しい正しくないも、善いも悪いも、優も劣も、是も否も、悪人も善人も気狂いも聖人も。
それを本当に正しく判断できる人間っているんでしょうか。
集団生活を営むルールとして法律や憲法というのはもちろん必要です。
でもそのルールや道理は別の地域では全く通用しないこともあるわけです。
今、ここで、この場にいる大多数の人間が是とするってだけで。
ああ、自分の事を抉り出す記事ってまだまだ厳しいなあ。
話が膨らみすぎてしまったので再度次回に続きますw
今夜はこれでおやすみなさい。明日のあなたが自分の信念で前を向いていられますように。
今日のテーマソング LadyGagaーJudasー
その人らしく生きていける楽しい世の中を願って!
ブログランキングにポチッと応援のご協力をお願い致します(*´∀`*)
Love&Thanks&Happy!あまうず
傷つけられようともそこに後悔はないので、結果を受け入れやすいんです。
その時の自分の最善の選択をしたわけですから。
もしタイムマシーンで過去に戻っても、同じ状況で自分が同じ選択するなら結果も同じなわけです。
でも駆け引きしていたり、保身していたりすると「たら、れば」に囚われるのでその執着から逃げられない。
そしてもうひとつ、人間関係において多くの人が囚われやすいのが、善悪だとか正誤だとか
正しい正しくないの世界です。
女性の恋愛相談で特にありがちですが、相談や愚痴って別にアドバイスを求めているわけではなく、
「あなたは間違っていないよ」「その状況なら仕方なかったよ」って誰かに言ってほしいだけなんですよね。
自分のとった行動・選択に自信がないから誰かに認めてほしいのでしょう。
でも本当は自分で自分の行動や選択に納得していれば、悲しいや寂しいという思いはあれども
「執着」ってほど囚われなくてすむはずなんですけどね。
で、昨日も書いた言い分と言い訳なのですが、これって究極煎じ詰めれば
自分の道理を相手に通したい=思い通りにしたいって事に行き着くと思うのです。
「運について」や「運と行動と癒しスタジアム」の記事で、
「自分の思う道理に合わない事は周囲からもたらされます。それが自分にとって良いことならば
幸福だし、苦手な事ならば不幸」、
「この世には本当は善悪も正誤もありません。それは勝手に自分が作っている常識やルールという名の思い込みです」
と書いたように、あなたの道理はあなたが思い込んでいる道理であって、誰かの道理とは別なのです。
聖徳太子が作ったとされる十七条の憲法の第十条では
「人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。」との一文があります。
ざっと訳すると
「人はそれぞれの考えがありますし、それぞれがこれだと思うことがあります。
相手が良い!といっても自分はそうではないし、自分が良い!と思っても相手はそうではない。
自分が必ず聖人で、相手が必ず愚かだというわけではありません。皆同じように凡人。
そもそも良いとか良くないとかの道理を、誰が定めることができるんでしょう?」
ううーん!1400年以上も前に制定されている憲法に既に記されてるとは!
とはいえ昔は私も「常識」という言葉に囚われていて、「常識がない」と言われることが一番嫌でした。
先ほど書いた事だって元々そんな考えだったわけではありません。
ルールを守ることが好きだったし、心の中でジャッジする癖がありました。
でも、自我が崩壊して、その事で多くのものを失ったと思い込んだ時に
一番立ち直れなかったのが「常識を制御できない状態に陥った私」を見捨てられたと思った事だったんです。
今まで常識という理を持って判断や結束に関してさんざん頼ってきたのに、助けを求めたのに
疲れてできなくなったら一発で見捨てるんだーと。
まあその常識が通じないときでも今と言っていることは基本的に変わらなくて「個人の幸せと世界平和」
だったんですけどねw
それでもその時は気狂い扱いもされたし、逆になぜか知らない人に拝まれてついて来たりもしたんです。
間違っているとか間違っていないとかって一体何なんでしょうね。
正しい正しくないも、善いも悪いも、優も劣も、是も否も、悪人も善人も気狂いも聖人も。
それを本当に正しく判断できる人間っているんでしょうか。
集団生活を営むルールとして法律や憲法というのはもちろん必要です。
でもそのルールや道理は別の地域では全く通用しないこともあるわけです。
今、ここで、この場にいる大多数の人間が是とするってだけで。
ああ、自分の事を抉り出す記事ってまだまだ厳しいなあ。
話が膨らみすぎてしまったので再度次回に続きますw
今夜はこれでおやすみなさい。明日のあなたが自分の信念で前を向いていられますように。
今日のテーマソング LadyGagaーJudasー
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